2013年 08月 05日
「『ひとのあかし』を問う法廷」 道新記事 異聞風聞より |
2013.8.4 北海道新聞朝刊 2面 異聞風聞より全文掲載。
以上、全文掲載。
地に足を付け、自然の恵みを分けてもらって生きていくという、とても当たり前のこと。
ここでは「ひとのあかし」とされる、当たり前の生活を奪われた人びとの言葉はとても重いとおもいます。
すべてをコストとベネフィットという秤にかけて、その時点で不要・非効率とされればバサバサと切り捨てていくビジネスマンには想像できないのかもしれませんが、我々の生活は、どうやってもこの自然の上にしか成り立ちません。
我々が手に入れてきた文化的な生活をすべて手放し、自然に帰れなどの言うつもりはありません。
しかし、今我々が手にしているモノが本当に必要なのか。それらは、実は、子供たちの可能性や権利を犠牲にして成り立ってはいないか。
見ないふり、なかったこと、は、もうやめましょうよ。
大工・生活者 齊田綾
「ひとのあかし」を問う法廷 編集委員 大西隆雄
大きな政治権力から「なかったことのように」無視され、踏みにじられる小さな声がある。その声に耳を澄ませば、コトの本質が見えてくる。
福島原発事故後、日本各地を巡った「原発を問う民衆法廷」。第1回の東京法廷(2012年2月)から大阪、郡山(福島県)、広島、札幌、熊本などを経て、第10回東京法廷(今年7月20,21日)で結審した。最終日は折しも参院選の投票日。
選挙結果は、原発回帰の自民党の圧勝だったが、「小さな声」が消えるわけではない。各地の法廷で私が出会ったのは、ひとの尊厳を回復させよと訴え、闘う人びとだった。政治がすくいきれない声を聞く―。
◆ ◆
締めくくりとなった東京法廷で、一つの詩が朗読された。
ひとは作物を栽培することを覚えた
ひとは生きものを飼育することを覚えた
作物の栽培も
生きものの飼育も
ひとがひとであることのあかしだ
あるとき以後
耕作地があるのに作物を栽培できない
家畜がいるのに飼育できない
魚がいるのに漁ができない
ということになったら
ひとはひとであるとは言えないのではないか
福島県南相馬市の詩人、若松丈太郎の「ひとのあかし」。
原発事故を「核災」と呼ぶ若松は、事故後、この詩を作り、郡山法廷(12年5月20日)でこう言った。「核災は人間の尊厳を奪っているのです。日常を奪われ、避難生活を続ける私たちはどんな存在なのでしょうか・・・・・・。私たちが暮らしている国は民主主義国家と自称しているけれども(中略)、私たちは日本国民ではないのか、私たちは棄民されているのか」(民衆法廷記録第3集=三一書房刊)
この言葉は、民衆法廷の問いそのものだ。国策として原発を推進し、人類史上最悪の事故を招いた責任を誰がとったのか。住民の未来を奪い、故郷の大地と海を汚した大罪。その罪を償い、ひとの営みを返せ―。
各地で住民や識者が証言に立った。札幌法廷(12年12月8日)では泊と大間(青森県)の原発、宗谷管内幌延町での核のごみの地層処分研究に、住民が反対の声を上げた。熊本法廷(今年5月25日)では水俣病患者が福島との連帯を語った。
判事の一人、岡野八代(やよ)・同志社大大学院教授(46)=政治思想=は東京法廷の最後に言った。「民衆法廷で聞いた声はとても小さな声だけど、それはすぐ隣で、至る所で響いています。分断された声を聞きとり、私たちの社会にこだまさせたい」
◆ ◆
民衆法廷とは何か。人びとが正義の名の下に真実を究明し、責任をただす行いだ。平和運動であり、社会への呼び掛けだ。
運営には多くの市民や法律家が関わった。中心にいたのが北海道出身の2人だった。
判事のリーダー役の前田朗(あきら)・東京造形大教授(57)=刑事人権論=は札幌出身。札幌西高から中央大。アフガニスタン国際戦犯民衆法廷共同代表などを務めた戦争犯罪の論客だ。法廷をどう生かすのかと聞くと、こう言った。「1年半の間、各地で原発民衆法廷をやって、ハイ、おしまいとは言えない。世界に非核地帯があるように、非原発地域を広げるため、今度は『世界民衆法廷』を準備したい」
東京都内で働く弁護士の田部知江子さん(42)は釧路出身。札幌南校から北大。本業の傍ら詳細な資料作りなどで舞台裏を支えた。「原発は地域のコミュニティ―を破壊し、人権を奪った。その犯罪性、違法性を議論の中で確信しました」
原発回帰を言う前に、耳を澄ませば小さな声が聞こえてくる。そこから始める政治を望む。2013.8.4
以上、全文掲載。
地に足を付け、自然の恵みを分けてもらって生きていくという、とても当たり前のこと。
ここでは「ひとのあかし」とされる、当たり前の生活を奪われた人びとの言葉はとても重いとおもいます。
すべてをコストとベネフィットという秤にかけて、その時点で不要・非効率とされればバサバサと切り捨てていくビジネスマンには想像できないのかもしれませんが、我々の生活は、どうやってもこの自然の上にしか成り立ちません。
我々が手に入れてきた文化的な生活をすべて手放し、自然に帰れなどの言うつもりはありません。
しかし、今我々が手にしているモノが本当に必要なのか。それらは、実は、子供たちの可能性や権利を犠牲にして成り立ってはいないか。
見ないふり、なかったこと、は、もうやめましょうよ。
大工・生活者 齊田綾
by aya-saita
| 2013-08-05 22:07
| 震災がれきと原発
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